創立者・・・・・劉備(玄徳)161〜223



初代皇帝・・・劉備(在位221〜223)



二代皇帝・・・劉禅(在位223〜263)



  主な武将



    五虎将軍・・・・・・・・・・関羽

                 張飛(関羽とともに劉備の義兄弟)

                 趙雲

                 馬超

                 黄忠  

     

   その他・・・・・・・・・・・・・魏延

                 馬岱(馬超の従兄弟)

                 劉封(劉備の養子)

                 厳顔

                 周倉

                 姜維 

     

  文官・・・・・・・・・・・・・・・・諸葛亮

                 法政

                ホウ統

                          など    



    劉備

           後漢の景帝(光武帝の弟)の子孫。父は早く死に、母と筵を織って生活して
          いた。24歳(諸説あり)のとき関羽、張飛と出会い、義兄弟の契りを結んだ。

          3人は劉エン(後に蜀(益州)に移動。子は劉ショウ)に黄巾の乱撲滅軍の義 
          勇兵として参加し、功をあげた。そのときライバル曹操と出会う。         

          当時漢の政治は宦官の賄賂政治で、劉備は賄賂を送らなかったため、もらっ
          た官職は田舎の県令(警察署長)であった。劉備はそこでとてもよい政治を行
          ったため民衆はみな彼に従った。ところが、都から監察官が送られてきて、劉

          備に賄賂を要求したが劉備は断ったため監察官はおこって住民を脅し嘘の 
          証言を書かせ、劉備を捕らえようとしたため張飛が怒り、監察官を木にぶら下
          げ滅多打ちにした。劉備はそれを止めたが、観察官を助けようとはせず、県 
          令の職をすてて放浪することになった。



           劉備は各地を放浪し、曹操のもとに身を寄せた。だが、曹操の部下は劉備
          がいつまでも曹操の下につく人間ではないとして、彼を殺そうとしたが、すべて
          曹操に止められた。劉備は袁術討伐として兵を借りたがそのまま帰ってこな 
          かった。曹操は怒ったが、当時兵を出せる状況では無かったので追うことは 
          なかった。



           劉備は同族の劉表にもとに身を寄せることになった。しばらくは平和だった
          ので劉備は馬に乗ることが無くなり、脾肉(ふともも)がついてしまったのでとて
          も悲しんだ。これが「脾肉の嘆」である。しかし平和は長く続かなかった。劉表
          が病気になり重体となってしまったのである。劉表には2人の息子がいたが劉
          表は劉備に後を継がせようとした。だが劉備はそれを断り長男に継がせるべ
          きだと言った。だがそれを面白く思わないものがいた。蔡ボウであった。劉表
          の次男は彼の甥であった。彼はその子に跡を継がせたかった。そのため邪 
          魔の劉備を暗殺しようと企んだのである。    (7月8日)





           劉備はかなり危険だった。宴会のとき部屋のあちこちに兵を置き、劉備を殺
          そうとした。だが警備をした趙雲がそれに気づき劉備は逃げた。途中川を渡 
          り何と逃げ出せた。すると劉備は牛に乗った少年と会った。その少年は劉備
          のことを知っていた。なぜ知っているかと聞くと、水鏡先生から聞いたという。

          劉備はそこをたずね。そこで「臥竜」「鳳雛」について知ることとなる。

                                        (7月10日) 

                                       

             劉備は水鏡先生の家に泊まることになった。そこで水鏡先生が

           「臥竜と鳳雛のどちらかを手に入れれば天下をとることができるだろう」

           と言った。劉備はそれについてたずねたが水鏡先生は「よいよい」というば 
           かり。あくる日趙雲が劉備を向かえに来るのであった。

            ある日町で唄を歌っているものがいた。劉備はこの人を臥竜か鳳雛のど 
           ちらかだと思い、酒宴に誘って味方につけた。しかしこの者は臥竜でも鳳雛
           ではなかった。この者は名を単福といった。しかし劉備は単福を軍師に任命
           した。ところがその直後大変なことになった。曹操が攻めてきたのである。

           曹操は親戚で曹操軍の中心的存在だだった名将曹仁を総大将に10万の 
           兵を率いていた。当時劉備の兵は1万もいなかった。

                                        (8月5日)

             曹仁は八門金鎖の陣を使った。だが徐庶はその陣を破り敵を壊滅させ
            た。劉備は改めて軍師の必要性を認識した。それに対し曹操は部下に命
            じて徐庶を劉備から離すようにした。軍師程イクは徐庶の母を人質に取っ
            た。そしてその母に徐庶を呼び寄せる手紙を書かせようとしたが、母は劉
            備を尊敬しており、逆に曹操を罵った。曹操は怒り、殺そうとしたが、それ
            では返って危ないと判断した 
                               10月5日


続く・・・・・・・

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